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しがないサラリーマンだった僕が結婚式のカメラマンを目指すようになったのは
誰もが知るあの大きな事件がきっかけでした。

2011年3月11日

間違いなくあの時が僕のターニングポイントでした。

 

 

こんにちは。
NeM PhotographyのNaoです。
本日は僕が結婚式の写真撮影という少し特殊な仕事に就くことになった理由についてお話しさせていただきます。
「これ以上好きな仕事を見つけられる気がしない」
そうまでに思えるこの幸福に満ち溢れた仕事へ就くことができたのは、不安で精神がおかしくなってしまうようなある体験がきっかけでした。

僕に興味を持ってくださった花嫁さんや、大きな一歩を踏み出せずに迷っているような人にはぜひ見て欲しいです。
なおこのブログの写真はフリー素材を使用しておりますのでご了承ください。
それでは、以下長文です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プロローグ〜感情の波〜

このブログをご覧のあなたは社会人でしょうか。
もしそうなら少し記憶を遡って学生時代のことを思い出してみていただけますでしょうか。

学生生活では入学式、新しい出会い、席替え、体育祭、文化祭、テスト、夏休み、卒業式と様々なイベントがあります。
泣いたり笑ったり、一喜一憂してみたり、感動したり悔し泣きしたり、色んな思い出がありますよね。
僕はこういった感情の動きを

『感情の波』

と表現しているのですが、社会人になりたての頃、これが急に少なくなりました。
選んだ仕事が経理という単調な作業だったのが大きかったのかもしれません。
平坦な感情が続くと自分の人生に物足りなさを感じるようになりました。
(ちょっと表現が大げさですが)
学生時代は良かったなぁなんて思ったのもこの頃です。
でもそんな風に感じる生活が嫌で、映画を観て感動してみたり、プライベートの中で感情の波を作るようにしていました。

 

 

兆し〜初めて買った一眼レフ〜

そんな時に仲良くさせてもらっている職場の同僚同士が結婚をすることになりました。
10人ぐらいのグループで一緒にスノーボードに行ったり、花火大会に行ったり、フットサルをしたり…
集まればいつも楽しい、そんなグループ内での結婚。
盛り上がらないはずがありません。

僕は二次会の幹事と余興をお願いされました。
張り切って挑みました。
余程嬉しかったのだろうなと他人事のように思い出されます笑
当時流行っていたCMのパロディを友人たちで作ることになりました。
しかし動画を撮るにもカメラがありません。
そこで買ったのが一眼レフでした。

 

「え?そこで一眼レフ?」
と感じた方もいらっしゃるかもしれませんね。
一眼レフといえばどちらかといえば写真を撮るものという印象が強いです。

しかし以前従兄の結婚プレゼントとして親族みんなからの動画を撮ることになった際、従妹が「とても綺麗に動画が撮れるよ」と一眼レフを貸してくれたんです。
その画質の良さに驚き!!!
背景がボケたり、画質がめちゃめちゃ良かったりする動画に感銘を受けていたので、余興の動画も一眼レフで撮ろうと思ったわけです。

そんな感じで当初は動画用に購入した一眼レフでした。
とは言いつつ、やっぱり写真も撮ってみたくなります。
せっかくだからと散歩のお供に連れ出した一眼レフ。
機種はCanonのEOS kiss X4のダブルレンズキット。
ビックカメラで確か7~8万円くらいで買いました。
やっぱり画質もボケも綺麗で感動。
「これは結婚式当日にも持っていかないと!」
と説明書とにらめっこな生活。

 

 

 

 

躍動〜友人の結婚式〜

そして迎えた当日。
短期間では使いこなせず結局はオートで撮影。
それにも関わらず結婚式がただただ楽しく、そして感動的で、おまけにカメラの画質もいい。←しかし腕はない
それでも写真を撮るのが楽しくて楽しくて…
新しいおもちゃを与えられた子供のように無我夢中で撮影したのを覚えています。

もちろん今思えばもっと色々できたとは思います。
決してプロのように綺麗に撮れたわけではありません。
でも、その撮れた写真を一早く新郎新婦に見せたいという気持ちが心の底から湧き起こってくるようでした。

その衝動に突き動かされるように毎日平日仕事を終えた後に深夜3時ぐらいまで掛けてスライドショーを作成していました。
アドレナリンのせいか不思議と眠くならなかったのを覚えています。
そうしてなんとか完成させ、翌週末に二人に見せることができました。
1つのテーブルを囲みながら涙を流して喜んでくれたことが今でも印象に残っています。

そんな経験がありましたので、結婚式の写真撮影を仕事にしてみたいとはその瞬間から”思ってはおりました”。
ただ経理というかけ離れた仕事をしていた私は、知識もなければ、資格も経験もないと三拍子揃っていたので
「さすがに無理だろう」
そう諦めようとしていました。
それでも、どうしてもあの時の感覚が忘れられない…
しかし次に結婚する友人を待つことしか当時の僕にはできませんでした。

 

 

 

 

危機〜ターニングポイント〜

しかし半年も経たないうちにターニングポイントが訪れました。

2011年3月11日
東日本大震災です。

その日は金曜日でした。
当時の僕は都内のオフィスで働くサラリーマン。
経理をしていました。
請求書をチェックしたり、経費精算をしたりするあの経理です。
いつものように電卓を弾いていたお昼過ぎ、突然建物全体が大きく揺れました。

ビルごと崩れてしまうかと思うほどの大きな揺れでした。
反射的に机の下に隠れましたが、頭の中はもう別の不安でいっぱいでした。
(まさか…!どうかこの予感が外れますように…!)
咄嗟にスマホを取り出し調べたのは”震源地”
そして期待虚しく悪い予感は当たることになります。

「震源地 三陸沖」

私の地元である宮城県石巻市のすぐ近くでした。

 

ご注意:以下、東日本大震災に関する記載がございます。写真は掲載を控えておりますが、心臓の弱い方などは閲覧をお控えください。

 

 

 

 

 

 

 

数年前から大きな地震が来ることは予想されていたのでいつも気がかりにはしていたんです。
ですから大きな地震が来るたびに震源地がどこかばかり気にしていました。
東京をこれだけ大きく揺らす地震の震源地が遠く離れた宮城県…
周りの同僚たちの声が急に届かなくなり、頭の中が真っ白になり血の気が引いていくのが分かりました。

電話は全くつながらず一往復だけできた母とのメールには「こっちは大丈夫」という短い文面のみ。
私以外の両親をはじめ、祖父母や妹たちは全員実家で暮らしていました。
とりあえず無事をメールで確認できたものの本当に大丈夫なのかと不安が残ります。
そしてその不安を確実なものとするニュースがその後飛び込んできました。

皆さんもご覧になられたあの津波の映像です。
泥や色んなものを含んだ真っ黒の津波は街を頭からすっぽりと飲み込むだけでなく最大で高さ40mも山を登りました。
単純計算ならマンション12階程度の高さです。
海沿いの街は根こそぎ持っていかれてしまいました。

「あれじゃ誰も生き残れない」

あまりの規模の大きさに頭が真っ白になり何も考えられなくなってしまいました。
先ほどの短いメールを最後に家族とは連絡がつきません。
揺れが治まって一息ついたところをあの津波が意表を突いて襲ってきたのです。

その日はなんとか家に帰ろうと駅にはたくさんの人が押し寄せていました。
歩いて帰ろうとする人。
近くの友人宅に泊めてもらう人。
なんとか電車に乗ろうと駅でずっと待ってる人。
いろんな人がいました。

少数派でしたが僕はその日会社に泊まることにしました。
頭の中は家族のことでいっぱいで、とにかくスマホの情報にかじりついていたかったのだと思います。
現地の情報をかき集めましたが家族にたどり着きそうな情報は見つかりませんでした。
ほとんど眠ることなく翌日駅が少し落ち着いた段階で帰路につきました。
土曜日の朝になっていました。

 

 

 

ショックに包まれたまま週末を迎え、自宅でもパソコンにかじりつくようにして現地の情報を収集しました。
どこかの誰かが撮った写真をネットで見つけては、ここがどこなのかと必死に調べていました。
その後無駄だと分かりつつも災害伝言掲示板にメッセージを残し、何度も更新ボタンを押してみましたが誰からも返信はありません。

家族のもとへ駆けつけたくなる気持ちは山々でしたが、当時は物資等の輸送トラックを優先するために高速道路を空けておくよう呼びかけがありました。
そのため自宅でただただ連絡を待つことしかできず、計画停電で暗くなった景色を見ては家族の安否のことばかり考えてしまい震えが止まらなかったのを覚えています。
何の手がかりも掴めず過ごす時間はとても長く、時間が経過するごとに不安ばかり大きくなっていきました。

 

 

 

 

 

奇跡〜伝言掲示板〜

しかし、一週間ほど経ったある日、災害伝言掲示板に親戚から一通のメッセージが届きます。

「家族全員無事でした」

奇跡だと思いました。
喜びたい気持ちをグッと抑えつつ掲示板にあった電話番号へ電話すると叔母が説明をしてくれました。

実家までは津波が届かず、海の方へは誰も行っていなかったので全員難を逃れることができたそうです。
連絡をくれた親戚は関東で新聞社に勤めていたのですが、東北支社の同僚の方が近くに行った際に確認を取ってくれたとのことでした。

もちろんその後も現地では過酷な状況は続きましたが、命があったことだけでとても救われた気持ちだったことは間違いありません。

 

 

 

 

 

再出発〜新しい人生〜

説明が長くなりましたが、僕は一度こうして家族を失うような体験をしました。
擬似的に家族の死を体験し、今日自分自身にも同じことが訪れる可能性があることを実感しました。
「いつか」と思いながら自分の気持ちを押さえつけて生きていても、人生の幕が急に降りてしまうことがあることを身をもって体験したのです。

それからは

・ダメでもともと

・チャレンジしてみることが大事

・やってみたけどダメだったと言える人生を送りたい

・失敗しても死にはしない

そんな気持ちに切り替わり、一生勤める予定だった会社を退社して新しい仕事を目指すことにしました。

それが今の仕事、結婚式のカメラマンです。

しかしこういったチャレンジにはリスクが付き物です。
手堅い仕事を手放し、リスクの高い仕事に就くことに家族を含め周囲からは多くの反対を受けました。
「そうやって夢を目指して挫折した人をたくさん見たことがある」
諸先輩方からはそんな手厳しいお言葉をいただくこともありました。
もちろん上手くいく保証はありません。
というより上手くいかない方が自然ですらあります。
しかし、チャレンジしてダメだったらそれでも良いのです。
それまで失敗しないように生きてきたからこそ痛感していたことが一つ。
一番良くないのはチャレンジせずに後悔して終わること。
そう考えることができるようになったおかげで大きな一歩を踏み出すことができました。

もし就職できなかったら経理の派遣で食いつなぎながら土日は結婚式を無料で撮らせてもらうところからスタートしよう。
そんな覚悟を決めていたので想像通りの厳しい就職活動でもこの道を諦めることはありませんでした。
ブライダルや写真の専門学校を出たわけでもなければ、知識もなし、経験もなし、資格もなし。
ただ気持ちだけで入社させてくださいと来るものですから面接官の方もさぞかし困ったことでしょう。
きちんと自分の中での気持ちを確認するためにも、なぜカメラマンなのか、どうして結婚式なのか、報道カメラマンじゃダメなのか、結婚式のサービススタッフじゃダメなのかと自問自答を繰り返しました。
その中で出てきた僕なりの答えはこうでした。

結婚式は一日の中で泣いたり笑ったりの緩急がとても激しいです。
そしてその感情の波の頂点にあると僕が感じたのは「親への感謝の気持ち」という特別だけど誰しもが持っている特別でない感情です。
豊かになりたい、幸せになりたい、もっと上に高みを目指して。
もちろん向上心は悪いことではありません。
しかしそう思い過ぎて満たされないように感じることはありませんか。
もしそうなら、それはきっと塔の上ばかり眺めているからで、手の平の中に握り締めているものを忘れてしまっているからかもしれません。
そんな現代人の悩みを解決し、生涯その人の人生の支えになるものを結婚式は与えてくれるのだと思っています。
その時感じた想いを持ち続けることができたら人は幸せであり続けれられる。
でも人間は忘れる生き物です。
出来事として覚えていることはできても、その感情の高まりを持ち続けることはできません。
いつかその気持ちを忘れてしまったある日。
有り難いと思っていたことが当たり前になってしまったある日。
あの時の感情を思い出させてくれるのが結婚式の一枚の写真だ、そう思ったのです。

 

「経理としてだったら採用したいんだけどねぇ…」
とお言葉をいただくこともありましたが気持ちは一つ。
カメラマンになりたくて大きなリスクを背負ったわけですから妥協はできませんでした。
ですからこんな時はご縁がなかったということでお断りさせていただいておりました。

 

 

 

縁〜前職との出会い〜

ダメでもともとですからこうなったらやはり経理の派遣をしつつ土日は無料で撮影させてもらうところからスタート。
そんなことを考えながら面接に臨んだある日、面接官から意外な一言をいただきます。
「君のようなしっかりとして熱い想いを持っている人は初めてだ」
このようなありがたいお言葉を頂戴するのは初めてではありませんでしたが、
この後は決まって
「経理としてなら…」
と続くものでしたから今回もそうだろうと思っていたところ
「人と違う経歴は強みでもある。ぜひ弊社で頑張っていただきたい。」
「え、いいんですか???」とは口が裂けても言えませんでしたが、喉元まで言葉が出かかりました。
結婚式のカメラマンなんて指一本も引っかからない僕のことを雇ってくれると言うのです。
こんな幸運なことがあるでしょうか。
しかもブライダル業界トップ3に入る大手グループでした。
さらに配属先は多い時には1日で20件以上の結婚式があるような国内最大のゲストハウス。
捨てる神あらば拾う神あり。
何かの間違いというか、間違いしかないのですが、こうして僕のカメラマンとしての経歴がスタートすることになりました。

とは言え、就職してもそのまますんなり行くわけもなく。
人さまのご結婚式のお手伝いという大変恐れ多い仕事の責任とプレッシャーに入社早々に体調を崩しました。
なんて迷惑。
どうやら物事を真剣に捉えすぎる性格のようで。
それも帰宅中の電車内で倒れ救急搬送され、挙げ句の果てそのまま入院し手術することになります。
虫垂炎、いわゆる盲腸でした。
ただの盲腸かと侮るなかれ。
原因不明の腹痛と呼吸困難で死を覚悟するレベル。
そうでなければ大の大人が救急車を呼んでくださいなんて言いません。

そんな当時の自分へアドバイスを送るなら
「そんなに恐れるな。
失敗しないよう気をつけることは大事だが完全に避けることはできない。
問題はその後。
そして、それよりも一生懸命誰かを喜ばせることを考えなさい。」
です。
ファイト、自分。

そんなこんなで色々ありましたが、おかげさまで今はフリーランスとして活動できております。
ふと気がつけばあの震災からもうすぐ10年ですね。
初心忘れるべからず。

これからもたくさんの方の感情の波に触れては豊かに生きてまいりたいと思います。

 

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